穂高に生涯をささげ、「穂高の名ガイド」と呼ばれた今田重太郎。
標高2,996m、奥穂高岳山頂直下に建つ「穂高岳山荘」の礎を築いた。
その生涯を通して、登山客の命を守り、登山客が安全に体を休めて英気を養える快適な山小屋造り、登山に慣れない女性子供でも安全に通れる登山道造りを目指した。
「人の倍力があって、人の3倍仕事をする。何かやろうとしたら、ものすごい情熱を持ってやりとげる人でした」(今田英雄談)。
「僕は穂高に生かされている」
生前重太郎がよく口にした言葉である。
明治31年 | 岐阜県上宝村蒲田温泉で誕生 |
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大正10年 | 重太郎22才、穂高登山の案内人となる |
大正12年 | 穂高稜線に避難小屋の必要性を痛感し、実地調査に着手 |
大正13年 | 奥穂高白出のコルに位置を設定し石室を造り穂高小屋の基盤をつくる |
大正14年 | 穂高連峰初の山小屋「穂高小屋(20人収容)」完成 |
昭和26年 |
上高地から穂高へのルート「重太郎新道」完成 5才の紀美子を遊ばせて道づくりをした前穂との分岐点は、後に「紀美子平」と呼ばれる |
昭和32年 | 穂高小屋の増築、大改築開始 |
昭和33年 | 穂高岳山荘(100名収容)に改称 |
昭和36年 | 涸沢岳大雪渓に水源地を見出し水道を引き「天命水」と命名 |
昭和36年 | 風力発電機1基を設置(北海道山田式風車) |
昭和42年 | 有限会社 穂高岳山荘設立 |
昭和48年 | 穂高岳山荘50周年。重太郎75歳現役引退 |
昭和49年 | 勲六等単光旭日章を受ける |
平成5年8月31日 | 永眠 享年94 |
北アルプスの山小屋の創生から興盛の時代を描いた、今田重太郎の著作『穂高に生きる』が「ヤマケイ文庫(山と渓谷社)」より発売されました。
「奥穂高岳の標高を2メートル高くしようとした?」「重太郎新道を作ったときのこと」「『紀美子平』の紀美子のこと」なども語られています。
山荘公式オンラインショップおよび全国書店・オンライン書店にて取扱中。また、Amazon Kindle電子書籍でもお読みいただけます。